B612の世界を覗きみたい。

主に占星術やダイエットのこと書いてます。

メンヘラっていうほど悪なんだろうか?

こんにちはー。

最近暖かくなってきましたね、ピクニック日和ですねぇ。

 

 

ピクニックにクロミちゃんのお弁当箱持って行きたいなあ、なんて。

 

 

さて長い長い前置きは置いておいて。

 

クロミちゃんの友だちでもありライバルでもあるマイメロちゃんは、よく『マイメロ好きな女はメンヘラ』という偏見が巷に溢れかえっていますが。

 

その偏見は当たらずも遠からずで、実際ちょっとメンヘラだと思われる方から愛されているような気もします。

 

まあ、サンリオ側が逆手にとって売り出しているのもあるとおもうけど。

 

 

だけど、実際メンヘラのなにが悪いのでしょう?

 

 

メンヘラと呼ばれる方々を見ていて気付いたのは、感受性が高くて心根が純粋な方が多いように感じられます。

 

たとえば、ピクニックに行くときも木々から射し込む春の木漏れ日やほんの少し生ぬるい風に揺れる大地に咲くちいさな花々を感じ取ってしまうがゆえに人の悪意も憎悪も愛情も優しさもぜんぶ感じ取ってしまうから、いや侵略されてしまうからこそ精神的に疲れやすいのかもしれないしそんな自分自身を弱いと決めつけて劣等感に苛まれる日々を人知れず送っているのかもしれない。

 

人よりも感受性が豊か過ぎるがゆえにだれからも理解されなくてさみしい想いをしてきたのかもしれない。

 

メンヘラというのも、一種の才能、もっといえばギフトなんじゃないかなあって捉えることもできるんじゃないかな。

 

所謂ノブレス・オブリージュみたいな。

 

持っていない人からしたら理解はできないし、されないものだとある種の諦念を持ってしまえば意外に楽になれるんじゃないかな。

 

豊かすぎる感受性を持っていたら、その豊かすぎる感受性をだれかのために活かしてみてもいいかもしれないね。

 

活かし方は、人それぞれだからそこは自分で見つけてみようね。

 

繊細って言葉も人によっては悪口だ貶し言葉だとなるけれど、むしろ繊細って褒め言葉だとおもうしどんな欠点だと感じる物事も長所に置き換えることもできるから。

 

 

繊細だからこそ、たくさん気付けるし人の痛みもよく分かる。

 

道端にひっそりと咲く花を見て綺麗だと感じられる心根がある。

 

 

繊細なのも感受性豊かなのも、そんな自分を弱いと嫌わなくてもいいよ。

 

 

感じ取れる心根が大切なのだから。

 

メンヘラというのも、感じ取れる心根があるからこそ。

 

ひょっとしたら、メンヘラってむしろ褒め言葉なのかもしれないね。 

 

そう考えたらメンヘラっていわれても、あまり傷つかずに済むかもしれないね。

 

 

なんてことをマイメロ好きな女はメンヘラという説から、いろいろ考えてみました。

 

 

では。

弱みを見せる相手は選んだほうがいいかもね。

こんばんはー。

3月に入ってあったかくなってきましたねえ。

 

春は出会いと別れの季節ですね。

 

だからかな、最近人間関係について考えたり整理したりすることが多くなってきて。

 

ここ数年かなりいろいろあったからね…。

 

さて、タイトル回収すると。

 

弱みを見せる相手選びって大事だと思う。

 

よく信用されたいなら弱みを見せるといいって聞くけれど、これ、かなり気を付けたほうがいい。

 

というのも、弱みを見せてほしがる人はこちらの弱みを見て安心したい人達で、その弱みを利用したがる人達でもあるから。

 

場合によっては、その”弱み”を言いふらされたり弱みを利用してコントロールしようとするかもしれない。

 

これは、経験してみて初めて理解したことで気付いたときは怒りよりも悲しさのほうが勝ってしまった。

 

あとは、似たような状況の友だちをみていて客観的に理解した部分もある。

 

そういう意味では事情を知った上で奢ってくれたりする方も多くは純粋な好意というよりかは下心や優越感もあったりするから見極め重要。

 

特に男性にお金を出してもらう場合は、ね…。

 

そういう金銭的な”弱み”は、無意識のうちに相手との心理的な上下関係も生まれていたりするからね。

 

少なくとも対等な関係ではない。

 

相手に付け入る隙を与えてしまう。

 

人になにかをしてもらったらお返ししなきゃってなるから。

 

 

それこそ相手が何らかの見返りを期待していたら。

 

もちろん、金銭的な弱みじゃなくても心理的な弱みでも敢えてその弱みを知りたがる人達には注意をしたほうがいい。

 

わざわざ人の弱みを知りたがるなんてことってあまりないと思うし。

 

少なくともわたしは、そこまで知りたいとはならない。

 

弱みを知ることで安心感を得たいか、その弱みを利用しようとしているか、あるいはどちらもか。

 

西洋占星術の話になるけど、この手の話題って12ハウスの見えない敵って感じするなあって。

 

”見えない敵”って、そういうことねって妙に納得したりもした。

 

あと金銭的な〜の下りは、8ハウスかな。

 

8ハウスと12ハウスは、どちらも秘密や裏切りというキーワードこそ共通してるけど8ハウスのは墓場まで持っていく類の秘密や裏切りで、それこそトラウマレベルの。

 

一方、12ハウスはバレちゃったものは仕方ないってニュアンスの秘密や裏切りかなあ。

 

それこそ秘密の恋愛って12ハウス的かも。

不倫や浮気、ネット恋愛、噂話、配信、ボランティアが12ハウスのイメージかなあ。

 

それこそV系の配信とかいかにも12ハウス案件だし。

 

あと、タロット占いも12ハウスかな。

命術系は、9ハウス。

 

おっと、だいぶ話が脱線しちゃいました。

 

すみません( ̄▽ ̄;)

 

もしかしたら、西洋占星術の12ハウスに何らかの個人天体を入れてくる相手には弱みをあまり晒さないほうがいいかもなあって。

 

実際、弱みを知りたがる人達とのシナストリー詠んだら見事なまでに12ハウスに個人天体入れてくる相手だったからねえ…。

 

まあ西洋占星術に限らずとも、やたら弱みを知りたがる人達はちょっと警戒したほうがいいかも。

 

そもそも、なんでそんなに弱みを知りたがるのか謎だし。

 

弱みを見せなきゃ信用されないなら、そんな弱みを見せないと信用してくれない人達こそ信用するに値しないよね。

 

人には触れられたくないところのひとつやふたつはあるものだよ。

 

わざわざそこに触れさせなきゃ信用してもらえない人間関係なら、いらない。

 

本当に信用したほうがいい人達は、きっと弱みを見せてほしがらないはずだから。

 

気付いた上でそっとしておいてくれる人達は、信用してもいい人達だと思うなあ。

 

そういう人達になら、弱みを打ち明けたいタイミングで打ち明けたら大切に弱みを扱ってくれるんじゃないかなあ。

 

弱みってだれだって知られたくないから弱みなわけだし。

 

だから打ち明けるときは、バラされても困らない弱みにするようにもしてる。

 

本当に秘密にしたいことは、絶対に誰にも打ち明けないほうがいいから。

 

ながながと文章書いてたらそろそろ本気で寝たくなってきた。

 

おやすみ。

結局、マウントというのは双方の捉え方の問題なのでは。

こんにちはー。

今日はバレンタインですね、市場にはチョコがたくさん売られているからチョコ好きには嬉しい季節ですね。

 

さて、今回はバレンタインとはあんまり関係ないかもしれませんが。

(いや、ある意味関係はあるかな?)

 

よくマウントを取られた、という話題を聞きますが、よくよく考えたらこのマウントを取られた、というのは受け取り方の問題なんではないか、と。

 

たとえば、『○○へ旅行行ったんだ〜』って話されるとマウントを取られた、と解釈するひともいれば、へぇー、よかったね!楽しかった?って返すひともいるわけで。

 

ちなみに、わたしは基本後者のタイプ。

マウントが〜って捉えるよりも、知らないことを知れた!って捉えたいから。

 

知らないことを知ることは、楽しいことだから。

 

だから、敢えて価値観の合わないひととも付き合ったりするし。

 

知らない世界を知るための旅だとおもいながらひとと接しているから。

 

ただ、ひとによってはおなじ内容でも気持ちに余裕があるかないか、あるいは、届きそうで届かないから、とかといった嫉妬や羨望、劣等感、そうしたぐちゃぐちゃに混じりあったふだんは隠している感情を刺激されるからマウントを取られたとなるのではないか、と。

 

マウントを取られたとならないひとは、上記に当てはまらないか、余裕があるか、あるいは最初から諦めているか、ではないかな、と。

 

結局は、受け取り手のコンプレックスが刺激されるからという話でもあるかな、と。

 

だからこそ、もしマウントを取られたと感じたら逆に自分自身を見つめ直すきっかけにしてみてもいいかもしれない。

 

そして、マウントがどうこうに関しては話す側も話す相手は選んだほうがいいかもしれない。

 

まあ選んだほうがっていわれても、相手の精神状態とか深い心理は分からないものだとおもうからもし話してみてマウントが〜っていわれたら、あまり気に病まず相手のことを知れたと捉えたほうがいいかもしれない。

 

結局、どちらも捉え方や受け取り方の問題なのだから。

 

それにしても、なんでもかんでもマウントマウントってなるのは現代の悪癖だなあ、って内心ツッコミたくはなる…。

 

けど、欲しいものが手に入らない辛さも分からなくはない。

 

だから手に届きそうで届かないことを話されるのは傷付くのだろう、と。

 

そんなときだからこそ、自分自身の本音に気付くきっかけにもなるとわたしはおもう。

 

むしろ、マウントを取られた、と感じることは自分を理解するチャンスだとおもう。

 

どんなドロドロした感情も大事だから。

 

向き合いたくないかもしれないけど、どんな感情も、どんなあなたでも、嫌ってほしくない。

 

ドロドロした感情も、純粋な愛情も、どっちも受け入れてみてほしい。

 

どんな感情も、あなたの感情なのだから。

 

だからもし、バレンタインのチョコの数を自慢されたと感じたら、あっ俺、チョコいっぱい貰いたいんやなって自分を見つめ直すといいんじゃないかなあー。

 

長々と失礼。

 

では、よきバレンタインを…🍫

 

 

長期的な傷の舐め合いをする関係性の弊害

夜分遅くにこんばんはー。

今日も今日とて寒いですね。

 

さて。

寒くなると、どうしても精神的に落ち込みやすくなりますよね。

 

今回は、そんな落ち込みやすい時期だからこそ伝えたいことがあってこちらに記します。

 

まず、前提として傷の舐め合いをすること自体は悪くはありません。

 

むしろ、そうでもしないとやっていけないこともあるでしょうし一時期にするのなら全然いいかと。

 

ただ、気付いたらずっと傷の舐め合いをする関係性に陥ってしまっていたら気を付けたほうがいい。

 

なぜかというと、おなじような苦悩を抱えるひとたち同士でいたら慰め合うだけで問題を解決するための他者からのあらたな視点を無自覚に拒絶してしまい、泥沼に浸かってしまうからだ。

 

そして、おなじくあらたに苦悩を抱えるひとが入ってきたら仲間だ、分かり合える、となり慰めるが、そのあらたな仲間が前を向いたら無意識に引き止めるように前を向こうとする仲間を避難するような言動を取ってしまう。

 

そう、それが長期的な傷の舐め合いの弊害だ。

 

”人の不幸は蜜の味”というように、知らず知らずのうちにおなじような不幸な仲間を求めてしまい幸福や前を向いて生きるということを恐れるようになるからだ。

 

もし、そのドツボにハマってしまったら、どうか自覚を持ったうえで前を向いて生きようとする仲間をどうか祝福していただけたら嬉しいです。

 

そして、その泥沼からどうやったら抜け出せるかどうか考えてほしいのです。

 

自分の弱さに向き合うのは、つらい作業だとおもうし無理強いはしません。

 

しませんが、その泥沼にハマり続けて気付かないままで生きるほうが、ずっとずっと、つらいようにわたしには感じるのです。

 

いまの自分を認めてあげてほしい。

 

無理してつよくならなくてもいい、自信も無理してつけようとしなくてもいい。

 

どうか、いまのもがきながらも生きようとする自分を受け止めてほしい。

 

大丈夫、きっと前を向いて生きていけるから。

 

 

支えることと信じること。

おはようございます。

今日もめちゃくちゃ寒いですね、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

 

さて、本題ですが。

 

そのひとならできるって信じたいんですよね。

 

だから、そのひとが興味があることだったりやってみたいことは応援してみたいなあっておもっていて。

 

わたしがそうしてほしかったのもあって。

 

たとえば、いつも会うたびにネイル綺麗にしてる子がいたら自信持ってほしいから会うたびに褒めるしもしやってみたかったらネイルチップ作り依頼してみたり。

 

お仕事の内容によってはネイルNGのところもあるからね…。

 

だから自信を持ってくれたら、わたしは心の底から嬉しい。

 

そのひとが持つ可能性を信じていたい、できれば最後まで。

 

 

だけど、相手もおなじ気持ちとは限らない。

 

もしかしたら片思いかもしれない。

 

それに気付いたときに相手に対する”役割”が終わったのかもしれないな、と。

 

だから今度は、自分を支えるために頑張りたいな、と。

 

相手ばかりを支えると自分の土台がぐらついてしまうから。

 

自分を大事にする、ってそういうことじゃないのかな、なんて。

 

もう十分だれかを支えたから、もう大丈夫だよね。

 

自分を支えるために自分の時間を使いたい。

 

なんてことを、つい最近おもいました。

 

支えるばかりだと、相手は自分でなんとかする力が見につかないからある程度は見守るようにしたい。

 

支えさせてくれてありがとう。

 

そして、わたしを支えてくれたり助けてくれた方も支えてくれて、助けてくれてありがとう。

 

支えてくれた方が教えてくれたことは、ずっとわたしのなかで大事に大事にしていきたいな、って。

 

だって、支えてくれた方々のお言葉や知識は、宝箱に詰められた宝石のような純粋な好意なのだから。

 

だから、ふだんは宝石ひとつひとつを、大事に大事にそっと宝箱に仕舞っておきたい。

 

大事だから傷付けられないように傷付けないように鍵もちゃんと閉めて。

 

元彼君にもこの言葉が届いていたら嬉しい。

 

いまおもえば、かなり支えてくれていたから。

 

わたしが信じるのは、まわりの言葉じゃなくて目の前の支えてくれた元彼君だった。

 

だから、まわりの言葉よりも自分が実際この目で見たそのひとを信じたい。

 

もっと信じたかった。

 

だから、今度は支えてくれる方のことをもっと信じたい。

 

そのひと自身の純粋な優しさを信じたい。

 

自分自身がされて悲しくなったことはしたくない、だから。

 

支えてくれた方の優しさを、信じて大事にしたい。

 

もちろん100%純粋な好意は、きっとないとおもう。

 

下心だってほんの少しだけあるとおもう。

 

でも、そんな白黒わけなくてもいいんじゃないだろうか。

 

綺麗なものは、どこにあったって綺麗なのだから。

 

たとえ、ドブ川でも純白の百合の花が咲いていたら美しさは、より一層引き立つのだから。

 

ドロドロにコーティングされた醜いこんな世界だからこそ、純粋な愛情や優しさは、より美しく感じるのだから。

 

支えてくれた方のわたしの可能性を信じたいという純粋な好意を信じたい。

 

そうすることで支えてくれた方々に恩返ししたい。

 

わたしにとっての恩返しは、たぶん文章を書いていくことなんだとおもう。

 

元彼君が、わたしの小説の可能性を信じてくれたように恩返しとしてこれからも筆ならぬキーボードを止めずに言葉を綴っていきたい。

 

これが、わたしができることだから。

 

だから、これからもずっとずっと書いていきたい、最期まで。

 

長々と書いてしまいましたが、今日はこんなところで。

 

では、また。

 

みんな違ってみんな正しい。

こんにちはー。

今日は、珍しく雪降りでかな〜り冷え込んでますが、ちょっと用事で出かけてました。

 

なので、コタツからこの記事書いてます。笑

 

さて、本題ですが。

 

わたしの話になりますが、わたしは結構いろんな世界を生きるひとのお話を聞くのが好きでして。

 

それこそ いちばん最初に作ったXのアカウントでは、恋垢の方から歴史垢の方(世界史派と日本史派)や美容垢の方やゲーム垢の方とかいろいろな方々と関わっていました。

 

そんななかで、いろんな意見や考え方に触れていくうちに迷ったり悩んだりすることも増えてしまったけれど。

 

それこそ、だれもなにもまちがったことはいっていなくて。

 

みんな自分だけの”正しい”を持って生きていて。

 

たとえば、わたしはファッションではイメコン系も興味があって一時期調べていたのだけど、ひとによってはイメコン系に否定的なひともいるし。

 

ファッションも多角的に捉えたいのが、わたしの考え方でパーソナルカラーとか骨格診断とかそういうのを学ぶのが楽しいなあって。

 

もちろん好きな服を着たらいいとおもうし、そういう生きた方を貫くのもアリだとおもう。

 

けど、好きだけどあまり合わない格好をして似合わないっていわれて傷付いて自分の”好き”を否定してしまうくらいなら、その”好き”を大事に大事に胸のうちに秘めておいて合う格好を模索してみて新たな自分に出会うのも、それも”アリ”だ。

(ちょっと呪術の九十九由基風に)

 

ほんとは骨格ウェーブ系のふわふわヒラヒラワンピースが好きでも実際は骨格ナチュラルだから着てみるのはオーバーサイズパーカーとかメンズライク系だけど、かわいいモノが好きっていうギャップが生まれていい塩梅。

 

そういう意味では、むか〜しTwitter時代にTwitterで『かわいい系似合うとおもってるの?』っていわれたことあって当時は、つい内心反発して余計にかわいいモノ好きに拍車をかけていたけど、いまおもえばかわいい系よりキレイめ系のほうが似合うよ〜っていいたかったのかもしれない。

 

だからいまは、かわいい系は胸のうちに大事に大事にこっそり仕舞ってキレイめ路線に移行しようかなあ、と。

 

…わたし、どっちかというと、かわいい系 似合う顔ではないしね。

 

話戻すと。

 

メコンに限っていえば、似合うより好きを追求したい派もいればイメコンもいいけど、こだわり過ぎるのも良くない派もいて。

 

メコンだけでも、いろんな考え方や捉え方があって、どの意見も価値観も頷けるし、頷き過ぎて自分の価値観や考え方が揺らぐこともあるのだけれども。

 

だって、みんな違ってみんな正しいのだもの。

 

だれもなにもまちがったことはいってないのだから。

 

それこそ、いろんな世界を、みんなそれぞれ生きているのだから。

 

だからだれもなにもまちがってなんかいない。

 

外遊びが好きでいろんなお店や遊び方を知っている方もいれば、どちらかというとインドア派で家での遊び方を工夫して編み出したりするのが好きな方もいるし。

 

いろんな価値観や考え方に触れていくうちにどうしても困惑こそすれど、だからこそ知らないことを追求していくのは楽しいし、どうしてもやめられないなあって。

 

”好奇心は猫をも殺す”というけれど、好奇心に殺されるのは本望だ、ともおもう。

 

たぶん、それが、わたしの色なんだとおもう。

 

まだ分からないけれど。

 

いろんな色を知って一旦そのいろんな色に染まってみて…を繰り返すのが、きっと。

 

そういう意味では、自分と価値観が合わないひとと付き合ってみるのもそれもまた経験だよなあっておもう。

 

 

…まあ、めっちゃしんどいけど。

 

それこそ、ある意味で自分を偽って嘘吐いて生きているようなものだから。

 

だけど、たまにそういう方と付き合ってみるのは、いいんじゃないかと。

 

自分の”色”が増えるから。

 

最近おもうのだけれど、自分は○○だ!って決めてしまうよりも、あえて決めずにあいまいなままでもいいんじゃないか、と。

 

決めないからこそ、何色にも染まれるし染まっていくうちに自分の色が増えていくから。

 

だから、あえて決めないでいるのもアリなんじゃないか、と気付いた。

 

これからもいっぱい迷ったりするけど、迷いながらも生きていきたいなあって。

 

長々と書いちゃいましたが、今日はこんなところで失礼します。

 

本日も寒いですが、どうかあったかくしてお過ごしくださいませ。

 

では。

許すでも憎むでもなく″受け止める″。信長の忍びより

こんにちはー。

最近寒いせいかメンタルちょこっと落ち気味ですが、なんとか生きてます。笑

 

さて、本日もブログ書いていきますね。

 

今回は、推し漫画の信長の忍びがいよいよクライマックスに近づいているので信長の忍びから名言を。

 

まず、信長の忍びとは?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BF%8D%E3%81%B3

 

ちなみにアニメ化もしてます。山口勝平とか三森すずことか声優陣がめっちゃ豪華。

https://nobunaga-no-shinobi.com/

 

こんな感じのかわいいタッチだから、ほのぼの系かとおもいきや実際は、かなり本格的な戦国時代モノでシビアな描写が回を進むごとに増えていくという…でも、そこがよき…

 

そしてなによりも歴史豆知識があらゆるところに散らばめられていて楽しく歴史を学べるからオススメです!

作者の重野なおき先生は、信長の忍び以外にもスピンオフや外伝をたくさん出されていて真田幸村ではなく父・真田昌幸が主人公の真田魂とか戦国三梟雄でもあり暗殺大名でもある宇喜多直家が主人公の殺っちゃえ宇喜多さんとか戦国大名と麻雀を組み合わせた四コマギャグ漫画やドジっ子美人最強雀士が主人公の四コマ漫画サエコさんシリーズもオススメ。

 

だいぶ話逸れちゃいましたが(^_^;)

重野なおき先生の信長の忍びには名言もたくさんあって、そのなかでも身内からの裏切りに逢い闇堕ちしそうな信長さんに向けて妻・帰蝶さまがいった『許すでも憎むでもなく”受け止めて″ください』

つづけて受け止めたうえで歩みを止めないでいることも。

 

柔らかい言い回しだけど、いってることは厳しいな〜…っておもいつつも、たしかに″受け止める″っていうの、心に刺さったなあって。

 

受け入れる、じゃなくて受け止める、がミソだなっと。

 

かんたんにできることではないけれど。

 

きのうは、怒りが〜どうこう書いたけど、べつに怒ること自体はいいし嫌なことされて無理矢理ポジティブに受け止めなくてもいい。

 

ポジティブに捉えるのは、できたらでいいんじゃないかなーくらいのニュアンスで。

 

そういう意味では、きのうの記事はちょっと攻めすぎたかも︎;;

 

まあ書いちゃったものは仕方がない。

 

また話逸れちゃったけど、信長の忍びはいいよ〜って記事でした。

 

うん、ただの布教活動だね。

 

じゃあ、そろそろ。

 

またね!